2008年10月14日火曜日

架空と現実と世界の刷新

 ある大きなイベントの、その一部分として上演するお芝居の台本を書いた。生まれて初めてという訳ではないがそれにしても久しぶりだ。

 若いころ頃、脚本家の倉本總の講演を聞いたのを思い出した。彼は出演者の顔を思い浮かべながら、この人ならこういうだろう、と想像しながら書くと言っていた。そのまねをして、まずキャラクターの設定から取り掛かった。

 ハリウッドの脚本家養成学校には、穴埋め式のノートがあって、そこに、いろいろな設定を埋めて行くと物語ができるようになっているらしい。物語のパターンは分析されつくしていて、それにのっとれば、いくらでも物語が量産できる、ということだろう。あらゆる物語の主人公は何かが足りなくて、その何かを求めているという。私の物語の主人公は何を求めていることにしよう。 (大塚英志『キャラクター小説の作り方』東京、講談社、2003年)

  『柔道一直線』では師と弟子、『巨人の星』では父と子の葛藤が物語の柱になっていた(http://ja.wikipedia.org/wiki/柔道一直線)。物語が展開するには、何等かの対立、葛藤が必要だ。世の中は対立、葛藤にあふれている。しかし、あえて対立、葛藤を意図的に作ろうとしても、すぐには思い浮かばない。

 しかし、ありそうな状況を設定して、起きそうな出来事を展開するだけでは、それがどうした、ということになる。『柔道一直線』も『巨人の星』も「ありえない」事柄が散りばめられていて、私も子ども心にわくわくした。『柔道一直線』の方が、実写だった分、「ありえなさ」では、一枚上をゆくと私は思う。ありそうで、なさそう、なさそうで、ありそうなことが物語に加わらないと面白くない。

 昔、東京グローブ座でシェイクスピアの劇を見たのを思い出す。シェイクスピアのどの作品だったかは忘れたが、登場人物たちが最後、被っていたお面を一人また一人と外してゆき、ありのままの顔を互いに見て、幕が下りる。その時には気がつかなかったがいまから思えば象徴的だ。ありのままの顔を見る、というのは、別の言葉で言えば受容であり、和解だ。「和解」というのは、まさに「ありそうで、なさそう、なさそうで、ありそう」なことだ。

 もし、架空の世界の和解が、現実の世界の和解を進める刺激や勇気になるとするなら、作家や表現者たちは、一見、そうは見えなくても、世界を刷新する働きに参加することになる。